図書館の閉館時間までにはまだ少し時間があるというのに、今日は人が少なかった。
お陰で仕事が少なくてゆっくりと自分の読みたい本を探すことができた図書委員の有沢 志穂はカウンター作業をしている友人と交代して、自分の借りたい本の貸し出し作業をしようと考える。

カウンターに向かおうとした時に人影が一つ図書館に入ってくるのが見えた。
長身で細いその影が誰のものであるか、志穂には一目でわかってしまう。
図書館の常連である数学教師のものだ。

  「…これが返却だ」
「はい」

見慣れた風景だ。
放課後の図書館に氷室が訪れるのは珍しいことではない。特に志穂が図書当番の時には。
なぜなら、志穂と一緒に図書当番をしているのが氷室学級のエースである友人、   だからだ。
が頬を染めながら、氷室とほんの少し視線を交わして微笑み、氷室が持ってきた本を嬉しそうに手にとって、返却作業を行うのも志穂にとっては見慣れた風景だ。

今日もまた、何か借りるつもりなのだろう。
返却を終えた氷室はくるりと背を向けて図書館の中へと入っていく。
その背中を見送ってから志穂はゆっくりとカウンターに戻った。

  「志穂さん」

志穂の姿を見つけた はほわっとした笑顔で呼びかける。
その笑顔の元が何かなんて聞くまでもなく知っているけど、これを聞いてあげるのも友人としての義務のようなものだ。

「どうかした?」
「えへへ、今日も氷室先生の返却できちゃった」
「…よかったわね」
「うん!」

カウンターでの些細なやり取りを堪能したらしく、嬉しそうに笑う からは全開の恋する乙女モードが漂ってくる。
ほわほわとした幸せな雰囲気を醸し出している は多分、気付いていないのだろうと思う。

氷室が借りるのも返すのも がカウンター作業をしている時だけだ、なんて。
資料を探すのに時間がかかったのか、 と交代して志穂がカウンターにいる時に借りに来た時は氷室が何となくがっかりしているように見えるなんて。
まして、あんな優しげな表情を志穂に対しては見せることがないなんてことも。
きっと鈍い彼女は気付いていない。

…見てる分には面白くていいけど…

ここで を焚きつけることなんて、氷室の気持ちにも彼女の気持ちにも気付いている志穂なら簡単だ。
でも、こういう色恋事は他人が首を突っ込むとロクな結果にはならないし、多分気付かれているとは思ってもいないだろう氷室のことを考慮して志穂は口を閉ざしている。
両想いなんだから、放っておいてもいずれはくっつくはずだ。

氷室が真面目すぎる教師であることは志穂もよく知っている。
在校中に、教師と生徒という枠組みが壊れる前に恋愛に関して彼が動くことはないだろう。
だから、志穂にできることはそれとなく の恋を支援してあげるだけだ。
例えばこんな風に…

「私、カウンターの仕事代わるから、その本を本棚に戻してくれない?」
「…いいの?」

どうせ返却作業と同時に氷室の観察をしたいのだろう。ありがとう、と言いながら は弾かれたように館内へ走っていく。
先程氷室が返却してきた本を大事そうに抱えて行った の後ろ姿を見ながら、苦笑気味に志穂はカウンターに座った。
カウンターの上に自分が借りたい本を並べて、貸し出し作業にとりかかる。



  「…えーと、この本は…」

分類番号を見ながら は本棚の間をゆっくりと歩く。
先程氷室が返却した本は小難しい数学の専門書だ。
受験なんかの試験問題ならともかく、こんな数学の専門書なんて は普段手に取ることもない。
小難しい数式がたくさん並んだその本をパラパラとめくって見た。
直後にパタンと閉じる。
いくら氷室学級のエースでもこんな本はとても手に負えない。
氷室が借りた本だから も読んでみたかったが、1割も理解できないだろう。

…全然追いつけないや…

氷室が好きだから氷室の好きなものを理解したいと思って本を開いてみたが、その壁はあまりにも高い。
氷室の好きなものを理解するなんて今の には到底無理だ。
理解するのは諦めて、がっくりと項垂れながら本棚を探す。

  ようやく返却する場所を発見して はもう一度溜息を吐いた。
返却する本が入るべきところはかなり高い位置だ。
背伸びしても絶対に届かない本棚の一番上を見上げる。

「……絶対に届かない。無理だぁ……」

の身長では絶対に届かない。
踏み台を探して、辺りを見回す。

…あった!…

少し離れた位置にあった踏み台をずるずると引き摺って、目的の本棚の前に置く。
は踏み台の上に立って小さく唸った。
踏み台に乗って作業してもギリギリ届くかどうか。

「…よっと…ん?あとちょっと…」

の目測は正しかったようで、ほんの少し届かない。
数学の専門書が並ぶところなんて借りる人が滅多にいないのか、氷室が借りた本の分だけぽっかりと間が空いている。
本がぎゅうぎゅうに詰まっていてどこに返却すればいいのかわからないよりはマシだが、踏み台に乗っても届かない自分の身長が恨めしい。
は必死に爪先立ちになって本を入れてみる。
ほんの少し本棚に引っかかった本を何とか押し込もうと震える指先に力を入れる。

  「んっ!……うわわわっ!」

どこかに引っかかった本が指先だけの力ではいれることができずに、 の頭を目がけて降ってきた。
避けようにも踏み台の上に不安定な爪先立ちの状態である。
何とか手を翳して、降ってくる本が頭に直撃することは免れた。
しかし、本棚を掴んでバランスを保っていた はバランスを失って、よろめく。

「……危ない!」

落ちそうなところを氷室に抱きとめられる。
バランスを崩したものの、踏み台に何とか留まった は抱きとめてくれた氷室の肩にしがみつく感じで掴まった。

「……びっくりしたぁ。あ、ありがとうございます」

氷室がいなかったら間違いなく踏み台から落ちていた。
骨折まではいかなくても、擦り傷とか打ち身にはなったはずだ。

   がお礼を言おうと顔を上げる。
目の前に氷室の顔があった。

…え!?…

踏み台に乗っているせいで、 の顔と氷室の顔の距離が15cmもない。
普段の身長差ならありえない接近状態で氷室と目が合った。

「っ!?」

ぎょっとしたようにのけぞった氷室がバランスを崩す。
氷室の肩にしがみつくことでバランスを保っていた も一緒に体が傾いた。
の息を呑む音と同時に氷室も息を呑んだのがわかった。
氷室一人なら体勢を立て直せたかもしれないが、 という不確定分子がいたためにそれができず、氷室がバランスを崩したままゆっくりと傾いでいく。

「きゃあっ!」

氷室の肩に手を乗せたまま、重力に任せて は氷室の上に落ちていく。
痛いのはイヤ、という本能的な動きで は固く目を閉じた。



ちゅっ



  真っ暗な視界の中、柔らかい何かが の唇に触れる。
知覚したのは触れた柔らかな感触と脳内に広がるホワイトムスクの香り。
直後に膝を打つ衝撃と の背中を抱き寄せるような氷室の手の動きを感じた。
の体が氷室にぶつかる。

「……すまない!大丈夫か?」
「いたた…あ、はい。だいじょう…」

が顔を上げるとさっきよりずっと近い位置に氷室の顔があった。
自分の唇に残っている感触がある。
多分氷室の顔のどこかに触れたはずだ。

…さっきの感触って……どこ?…

カッと顔が赤くなる。
自分の唇が触れたのは一体どこだったのだろうか。
は自分の口元を手で覆って、ちらりと氷室の様子を伺う。
氷室も口元を手で覆って気まずそうに を見下ろした。

「…………そこか」
「え?」

…そこってどこ?…

目を瞬く に氷室は困ったように一つ息を吐いた。

「……怪我はないな?」
「へ?あ?……あの……は、はい。ないです」

膝はちょっと痛いけど、一人で落ちるよりは怪我は少ないはずだし、氷室を巻き込んでしまった罪悪感に比べれば何ともない。

「では……とにかく、退きなさい」

氷室の言葉に我に返った は自分の状況に赤面する。
重力に任せて氷室の上に落ちた は氷室の上に跨ったままだった。
驚いて飛び退く。

「あ、あわっ!…ご、ごめんなさい!」

は立ち上がってスカートの裾の汚れを払いながら、そっと氷室の様子を伺う。
氷室も立ち上がって自分のスーツに付いた汚れを払いながら、 の方へと視線を向けた。
二人の視線が合った。
さっきの感触が蘇り、慌てて は視線を逸らした。

「コホン!…これは事故だ。じゅ、純粋な事故だ!」
「あ、そ、そうですね……事故……」
「その、き、気にしないように!」

氷室はくるりと背中を向けるとすたすた歩いて行く。
その動きが何となくカクカクしていて手足が左右同時に出ている。

  しかし、完全に動揺している は自分のことで手一杯なので氷室の動きの不自然さにも気付かない。
脳裏にはぶつかった感触と直後に口元を押さえていた氷室の姿が蘇った。

…先生にあんなこと言われても気にならないわけないよ。だって…今の……ファーストキス、だよ?…

そう思った瞬間、カッと頭が熱くなる。
つまり、事故とはいえ氷室と唇が触れたのは事実なわけで。
こんな事故でもなければ氷室とキスできることなんてあり得ないわけで。
何より、好きな相手との接触事故なわけで。
絶対に忘れられるわけがない。
そっと指先で自分の唇に触れた。
脳裏にありありと感触が蘇る。
そして、間近に見た、困ったような照れたような氷室の表情が浮かぶ。
脳味噌が沸騰したようにぐらぐらしてきた。

…うわーっ!どうしよう!?氷室先生の顔、見れないよ。思い出しちゃう…



  …あら?…

カウンター作業をしていた志穂は首を傾げた。
本の返却を終えた が戻ってきたのだが、様子が変だ。
心ここにあらず、というか…ぼんやりしている。
いつもぼんやりしているが、あまりにも様子が違うような気がする。

「…何かあったの?」
「え?何かって!?…え?あ、あの、志穂さん。私!カウンター…代わるよ」

顔が赤い。
明らかに変だった。
腑に落ちないものを感じながら志穂は立ち上がる。
今はカウンターに座っているのは の時間帯のだから、 が座っていても何も不思議ではない。
志穂の代わりにすとんと がカウンターに座る。
志穂は司書の先生が持ってきた本を手にした。

「じゃあ、私はこの本を片付けてくるから」
「う、うん。よろしくね」

  志穂は返却された本を抱えて、本棚へと向かう。

…あれは氷室先生……よね?…

「…落ち着け。……落ち着くんだ。何事も冷静に対処……コホン!……冷静だ!……」

本棚の陰で柱に向かって何やらぶつぶつ言っている長身の教師は氷室のはずだ。
しかし、いつもの姿とはあまりにも違っていて遠巻きに見るしかできない。
様子が変な二人の間に何かあったのだろうか。
氷室に限っては何があるわけでもないだろう。
だからこそ、二人の異変が不思議で仕方ない。
首を傾げながら志穂は仕事をする。

  「…あら?」

本の返却を終えた志穂は閉館作業のためにカウンターの方へと戻る。
その視線の先に氷室がいた。
本を抱えて氷室がカウンターの前で躊躇している。
いつもなら彼女が座っているならさっさと貸し出しに行くというのに。
閉館時間が近いのだから、もし貸し出しなら早く終わらせて欲しい。

「氷室先生、貸し出しですか?」
「…あ、あぁ。そうだ、貸し出しだ」

志穂が声をかけた後、しばらく躊躇っていた氷室が一大決心をしたように、本を差し出す。
俯いたまま がおずおずと手を差し出した。
これもまた珍しい光景だ。
いつもなら見詰め合うような何とも恥ずかしい空気になるはずなのに、今のこのギクシャクとした空気は何だろうか。
何となく二人とも顔が赤いような気がする。

…暖房はそれほど効いてないわよね?…

一瞬の後、二人がさっと手を引いたことで本がカウンターの上にゴトッと落ちる。
志穂が見た限りでは指がほんの少し触れただけだと思う。
なのに、二人とも耳まで赤いような気がするのは気のせいだろうか。

「す、すまない!」
「い、いえっ!私が…あの…」

ギクシャクとしているくせにとても見ていられないような恥ずかしい雰囲気になっていると感じるのは志穂だけだろうか。
どこからどう見ても意識しあっている。
何があったのだろう。
何かあったのは確実だ。
気にはなるが、馬に蹴られるのもイヤだ。

その場に居た堪れなくて志穂は閉館作業に必要な書庫の鍵を握る。
閉館作業が終わるまでにはこの恥ずかしい雰囲気を醸し出す氷室の貸し出し作業が終わっていますようにと祈ってそっとその場を離れた。

▲ Page Top

このSSは香月美夜様からご好意でいただきました。複製・転載は絶対に禁止ですのでよろしくお願いいたします。

なお、本SSは香月様のサイト「まったり散歩道」にてクイズに正解した景品としていただきました。リクエスト内容は「在学中ときめき状態での事故チュー&その後の戸惑い」です♪うは〜、GSで事故チューは夢ですよね、夢。

香月美夜様 「まったり散歩道

まったり散歩道